お姫様川源流小瀑 0044新潟004


滝名称:名称なし Non Name Falls
所在地:新潟県三条市(にいがたけんさんじょうし) Sanjyo City Niigata prefecture  
滝落差:1メートル
滝 幅:1メートル
河川名:お姫様川
その他:
駐車場:あり
難易度:★★★☆☆(集落の舗装道路を20分位、林道を20分位)


通算が44で新潟の4、4尽くしです、ちなみに俺の小学生時代の出席番号は、4番でした。



木津商店の前からお姫様川を遡る、超絶ローカルなネタです。

新潟県三条市山間の木津商店前が出発点。
車は、棚田Pにとめましょう。
北五百川大橋対岸から木津商店を望む。
三条側から粟ヶ岳に登山すると必ず目にします。
田舎によくある個人商店で、地域で唯一、煙草と塩を販売しています。

川の堤防に古びたゲートがあります。
ここから先へは、用水路然とした川が流れていて、さほど気にしていなかったのですが、川の名前を聞いたら、お姫様川と言われました。
その昔、この奥の家から、殿さまに嫁いだ人がいたんだろうな。
お姫様川は正面のひとつ山通称「たかっちょ」の右側、ぶなの道が通っている尾根を源流に、このゲートのところで、駒出川に合流しています。
距離的には、2〜3キロ程度の長さ。山間部の土石流危険渓流です。
2011年7月の豪雨では、大量の土砂が水田地帯を埋めてしまいました。

サビサビのゲートです。
右の川は、駒出川(こまいでがわ)
昭和30年代は、今の3分の1位しか川幅が無かったそうです。
その頃の洪水で北五百川大橋が流された為、川幅の拡張が行われ、北五百川大橋下流までは現在の川幅になりました。
しかし、年月を重ねると、現在川が右にゆるく蛇行している辺りに渕が形成され、泥岩質のその付近は緩やかな地滑りが起こっていました。
その為、河床に巨大なコンクリートブロックを置き、平成年代に入ってから、現在の川幅に拡張されました。

奥に見える橋が北五百川大橋
11年7月の豪雨の時は、橋桁まで水がきたそうです。
上流からは、樹木が次々に流れてきて、上手く下をくぐっていったそうです。


背後の山塊は。河内山系下田山塊の主峰、日本300名山のひとつ粟ヶ岳です。
新潟平野から急峻に立ちあがるその姿は、まるで屏風。
河内山系は、粟ヶ岳に登らないとその姿を現しません。
天気が良ければ、日本海に浮かぶ佐渡島からも見る事ができます。

下流、この先で駒出川と合流します。

細いU字溝になりました。

幅が広くなって自然の河床になりました。

5メートルも進むと、コンクリートの河床です。
コンクリートで固められる前は、魚がいたり、蟹がいたりしたのですが…

山神社に寄り道です。

ちょっと荒れた階段です。

山神社
誰が祀られているか忘れました…今度聞いておきます。
奥には、祠と道祖神が祀られています。

今回、龍が彫られていた事に初めて気が付きました。
当時有名だった彫り師に依頼したようです。

睨まれた…
神社を出発しましょう。

山神社を上流方向から振り返って撮影。
右の杉木立の間に見えるのが、山神社

人里を流れるお姫様川は、用水路みたいで面白みがありません。
用水路は、正面の電柱を巻き、左に曲がって画面上に写っている民家の脇へ進みます。
2万5千分の一の地図では、ここの中間付近から右に曲がってそのまま駒出川に注ぐように描かれています。

民家の横には、3連の砂防堰堤
むかし、ここには岩魚が住んでいましたが、現在は不明です。
何度もかいていますが、11年7月の新潟・福島豪雨は、山間部河川の生態系に大きな打撃を与えたらしく、本当に魚が少なくなっています。
以前は、魚が住んでいた渕も、魚影が見当たりませんでした。


ここのすぐ横に、最奥の民家があります。
ここまでは、よく釣りに来ていたのですが、ここより奥は、初めての訪問。
木津商店横の用水路然とした流れからは、想像もできない川幅になっています。
この砂防ダム、以前は水が溜まっていたのですが、すっかり土砂に埋まってしまいました。
下流から2番目の砂防ダムです。

建設中の砂防ダムです。

三連の小瀑落差は、それぞれ1メートル位。

建設中の砂防ダムその2。
今のところ、最上流の砂防ダムです。

放棄された水田。
まだ、そんなに年数は経っていないようです。

放棄された水田その2
頑張ればここまで車で来ることも可能ですが、工事の邪魔になったり、農耕の邪魔になるので、車は、木津商店前の駐車場に停めましょう。


ここから先は、倒木で危険と判断し、撤退しました。
正面奥がお姫様川の源頭部。
尾根には、ぶなの道が通っています。

振り返って撮影。
放棄された水田は、まだ灌木が生えていない事から、耕作されなくなってから、まだ数年しか経っていないようでした。
おそらく、2011年の水害で用水路が破壊され、修繕に費用を掛ける位なら、山奥の水田は放棄しようとなったと、推測しました。